ダンス作品と一般的なダンスの違い/ HDP公演「新たなる挑戦~NEXT ONE 2020~」

新たなる挑戦 NEXT ONE 2020について

ダンサーの鈴木 明倫君にお誘いいただき、観てきました。
今回でなんと9回目とのこと、凄いですね。

この公演は非常に変わっていて、まず公演自体のボリュームが非常に大きいです。
13時に開演して、すべて終わったのが17時近くだったでしょうか。
観客は長時間の鑑賞を強いられるので、慣れていない人からすると少しハードかもしれません。
非日常感があり、これはこれで面白さがあるなぁ、と。


公演のベースとなるのはコンペティションで、作品を上演したすぐ後に公開アドバイスされるという形式をとっています。
企画当初は作品への批評だったと思うのですが、公演回数を重ねていく内に批評からアドバイスに変わってきたのかなと感じます。
北海道ではまだまだ経験値の高い作家は少ないので、公演主旨や北海道の状況を考えるとその方が合っているのかもしれません。
観客にとってはアドバイスがあることで作品の見方が変わるので、ユニークな体験になるのではと思います。


そして、面白いのがコンテンポラリーダンス作品の後に普通のダンス(ストリートダンスやジャズダンス)が観られるということ。
ダンス作品と普通のダンスはベクトルが異なるのでなかなか共存が難しいのですが、有無を言わさずごちゃ混ぜにすることで共生させていてとてもユニークです。

さらにこの公演を面白くしているのは、当初は北海道の作家しか参加していなかったですが、最近は全国から集まってきているということ。
遠くから参加している人にどうしてこの公演を知ったのかと聞くと、大体の人が「乗越たかおさんのSNSで見た」とのことで、乗越さんの影響力の強さを感じました。

受賞したのは・・・

ネクストワン賞は北海道より神島百合香さんの「交錯」。

ソロやデュオが多い中で唯一のグループ(ソロ、デュオ、トリオ、グループという考え方)での作品でした。
グループだと個々の関係性やポジショニングだけでも表現の幅が広がるので、作品の選択肢が爆発的に広がります。

振付を始めたばかりの時期はダンサーをたくさん集めるのは大変なので自作自演が多くなりがちなのですが、今回ソロで挑戦した方はグループでの作品にぜひ挑戦してみてほしいと感じました。
全国から来る方はグループだと大変でしょうが・・・

鈴木ユキオ賞の久保田舞さん「After the summit」は抑圧された身体が印象的でした。
衣装や音楽などトータルのバランスも良かったと思います。

ダンス作品と普通のダンスの違い

なんて作品のことを全部書いていくとちょっと大変なので、ここからは感じたことを好き勝手に書かせていただこうと思うのですが、まずは「ダンス作品と普通のダンスの違い」を強く感じた日でした。



北海道の作家は前からそうですが「ダンス」の人が比較的多く、逆に全国から来ている作家は「ダンス作品」を作っている人が比較的多いという印象です。

鈴木ユキオさんのアドバイスの中に何度か「演出」という言葉が出てきたのですが、これは例えば「ダンスのテクニックはしっかりしているので、あとは演出を突き詰めるともっと・・・」といったニュアンスで使われていたように思います。



「ダンス」の現場ではテクニックというものが非常に重要視されます。

ダンススタジオに通ったり、研鑽を積むのは「上手くなりたいから」だと思いますし、テクニックが向上すると自分が観客の立場にまわってもテクニックを細かく認識できるようになります。

僕自身がそうだったのですが、素人の時はどんな動きもある意味同じように見えたのですが、それは動きを細分化して認識できていないからだったと思います。

ですが、目が肥えてくると何がどう凄いのかを説明できるようになるわけです。
なので凄いテクニックのダンスをに出会ったときは、随分と興奮していた記憶があります。

 

一方でダンス作品、特にコンテンポラリーダンス作品では「上手い踊り」「かっこいい踊り」というのは最優先事項ではありません。
ダンス作品は作家から観客に贈るプレゼントのようなものですが、そのプレゼントの中身というのは

「上手さ」「かっこよさ」「驚き」「楽しさ」

だけではなく

「醜悪さ」「やるせなさ」「不思議さ」「悲しさ」「スリル」「怒り」「共感」「裏切り」

など、もっと選択肢を広げても良いのです。

作品と観客との関係性、距離感について

創作に慣れていない方の中で多く見られる傾向として「説明的な作品」と「共感が難しい作品」の二つがあると思います。

説明的な作品について。

作家にとって「作品と観客との関係性」を意識することは重要なことだと思いますが、それは作品を観客に寄せて作ったり、観客にうけそうな作品を作るという意味とはまた異なります。
また、観客に手取り足取りわかりやすく伝えようとする行為も、作品が安っぽくなってしまったりもします。

距離感が近すぎる、ということになるかもしれません。

 

共感が難しい作品について。

ダンス業界でたまに耳にする「自分のやりたい表現を突き詰めること」は確かに大事なことでありますが、それが盲目的になると観客は置いてけぼりになります。

コンテンポラリーダンスやモダンダンスの創作初心者がよく陥りがちなところで「生きにくさ」や「やるせなさ」のような自身の薄暗い感情を表現しようと試みることがあると思うのですが、その感情をそのままぶつけられても「何に対して苦しんでいるのか」は観客は共感できません。

今度は逆に距離感が遠すぎるというか。
作品と観客の距離感ですね。

 

もちろん、スーパーな踊り手であれば自己の内面の負の感情をさらけだして、それがたとえ共感できなくても踊っている身体を見ているだけで泣けてきてしまう、ということはあるかもしれないですが・・・
それは振付家(ダンス作家)の育成主旨とはまた違ってきてしまう部分があります。
作品うんぬんよりも、その人そのものが国宝級、みたいな話ですので。

(観客を置いてけぼりにすることが目的な場合は別として)
観客を置いてけぼりにしないためには「客観視」は重要なスキルだと思います。

自分一人で客観視できない場合はドラマトゥルクなど、作品をみてくれる人がいるといいですよね(それも簡単なことじゃないですけど)

 

作品のフックについて

もうひとつ感じたことは作品のフックについてです。
フックというのはその名の通り心に引っかかる要素のことです。


ダンス作品において、このフックというのはある意味では何でもよくて、例えば男女がずーっと見つめ合う、と思ったら女性だけが一瞬反対を見る。
その後も女性はたびたびちらっと反対を見る、を何回か繰り返すと「女性はなぜ反対を一瞬だけ見るのか」というフックが観客の心に引っかかります。


一度観客がフックに引っかかると、好き勝手な想像や解釈を展開し始めていくことがあります。
これが面白い。


鈴木ユキオ賞を受賞された久保田舞さんの作品でも、衣装や踊り、音楽の雰囲気などにフックがあったように思い、観ながら勝手に色々と想像しました。
結果的には作家の意図とは全然違う印象を受け取ったのですが、そうやって何かを感じられる作品というのはフックが多い、もしくはフックが強いからではないかと思います。

ダンス作品において観客は「作品の正解探し」をする必要はなくて、観客もまた自由に作品と向き合うことが正しい向き合い方のような気もしています。

フックというのは振付や演出にいいて、ある種のテクニック的な要素があり、作品の中に配置するコツがあると思います。
観客にとって、集中しにくい作品はもしかするとフックが関係してくるのかもしれません(一概には言えないのですが)

作品を作る人が増えるには

どんな表現であっても、どんな作風であっても一線を越えてしまえば圧倒されるということがあります。
正解というのはありませんし、正解がないから面白いといえるのだと思います。


とはいえ、そんなに世の中は異才や鬼才の作家だらけではないので、一般的には知識と経験が大事になってくるのだと思います。


この公演のこれまでの参加者をみていると、振付の勉強をする前に作品をまず出してみる、という人が多かったのではないかと思います。
それはそれで勇気があって素晴らしいことだと思いますが、一方でその段階で評価にさらされることによって心に傷を負ってしまい、作品を作ることが嫌になってしまうこともあるかもしれません。

 

「コンテンポラリーダンス=こういう踊り」と決めつけるのではなく、いろいろな作品を観てもらえたらなぁと思いましたし、振付の基礎知識があれば演出の面白さや奥深さを体感してもらえるのになぁ、とも。

せっかくセンスもスキルもあるダンサーが多いのに、作品作りに関してはそれを活かすことができていなくてもったいないとついつい感じてしまいます。

でも、HDPのこの企画は「ダンス作品を作りたい人」だけではなく、「ダンスしたい人」が試しに一歩挑戦してみる場だとも思うので、これはこれで良いのかなぁ、と考えたり。

いろいろと考えてしまうのでした。

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