等身大の背伸び/舞踏探究 矢藤智子ソロダンス『余白』より

矢藤智子さんによる「人生初のソロ公演」は、非常に爽やかな劇後感のある公演だった。

等身大の背伸び、なんて書くとちょっと偉そうな感じがするけれども、終わった後に頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
それは決して手の届かない背伸びではなく、彼女にとっての少しばかりの背伸びであったように思う。



人はあまりにも背伸びをしすぎると、両足は地面から離れ、地に足が着いていない状態というものになる。
宙に浮いて自分自身(本体?)から遠く離れているうちは、自分自身の表現というものを見つけることはできない。


誰でも最初は真似から入るもので、みんな自分が成りたい誰かをイメージしながら、フワフワ地面から浮き出すものだと思う。
ただ、現実的には他人のようになることは難しく、そしてまたフワフワ浮いている内は自分の中に何かを積み上げることもなく。



そうやって何度も経験を重ねていくうちに、どこかで否が応でも自分自身の足で立つことの必要性に気がつくものだと思う。
それが守破離というものだ。


わたしに、何ができるのか。
わたしに、何が遺せるのか。
わたしに、向き合うということ。


矢藤さんは自分の引き出しを片っ端から開けて、その中から自分にできそうなことをまずは集めてみた。
その後に、ちょっとだけ…自分の延長線上に見えてくる、自分がやってみたかったことに挑戦してみた。

そういう印象を受けたが、もしかしたらこれは全然的外れな見解かもしれない。
そしてぶっちゃけ、それが合っているかどうかはいち観客である自分にはどうでもいいことである。

大事なのはそういうことを感じさせてもらったということで、それが等身大の背伸びという言葉に繋がった。

 

もう一つ頭に浮かんだのは、ハレとケでいうところのケの公演というか。
いや、本人的にはソロ公演なんてものはハレの場でしかないと思うのだけども。

ただ、今回の会場は劇場などの閉ざされた非日常空間ではなく。
背景に大きな窓があり、その外にはウッドテラスと庭があり、現実とちゃんと繋がっている場所だった。
(多少浮世離れした現実ではあったけれども・・・)

そのような場所で、おそらくこれからプロのダンサーや振付家を目指す訳ではない矢藤智子さんが必死に踊る。
大勢の観客から盛大な拍手をもらうでもなく、開場まで1時間も並ぶような規模でもなく、観客は必要以上の緊張感にさらされることもなく、仕事帰りにふらっと寄って観て帰れるような気軽さ。


日常の延長線上にある作品。
そういう意味でのケの公演。



こういう作品が、日常に存在している街は素敵だと思う。
ノリでふらりと街にでれば、どこかで誰かが何かをやっていて。
おもしろい人、作品、集まり、誰かの挑戦の場に自然に出会えること。

そんな街は、良い。